コラム・レポート
ヤマハ、松下と組みトヨタがF1体制を構築(22)
【モータースポーツを拡げろ!】ここで東富士の地で、F1参戦を決断したトヨタが初めて実際に参戦を果たした2001年までの軌跡を振り返ってみよう。
すでにヨーロッパでの活動拠点としていたドイツ・ケルンにあるTMG(トヨタモータースポーツ)では、「ル・マン」に参戦したマシンを開発してきた、アンドレ・デ・コンタルツを、F1のプロジェクトリーダーに任命する。彼は1999年の「ル・マン」が終了した後に、F1マシンの開発に取り掛かった。
一方で、この年12月、トヨタはFIA(国際自動車連盟)へ2001年以降に参戦するチームとして登録を行った。当時、F1グランプリに出場できるのは最大で12チームと決められており、出場する機会を他のチームの立候補で失うのを避けるためでもあった。
この一方で、エンジンの開発を内々に進め、1999年秋には12気筒エンジン用のパーツモデルを完成させていた。
しかし、FIAは2000年に入って、F1マシンのエンジンを最大で10気筒とする規則変更を行った。このためトヨタは、設計変更を余儀なくされるが、フェラーリから来たルカ・マルモリーニを中心に取り組み、同年末にはV型10気筒エンジンを完成させた。
この年の3月、トヨタはヤマハ発動機と資本提携を発表した。ここでは、高回転エンジンの開発に関する技術提携もうたわれた。ヤマハは1989年から1997年に、F1チームにエンジンを供給した実績があり、ノウハウの獲得も図ったものと言える。
また、ヤマハと組むことは、名車「2000GT」の開発でも経験済みであり、モータースポーツの頂点を目指すには、自然な流れだったのかもしれない。
こうして開発されたテストカー「トヨタTF101」が、2001年3月にフランスの南部、ポール・リカールの地で披露された。当初、2001年度の参戦を目標に掲げながらも、規則変更による対応に時間がかかったが、この1年間で2万kmを越す走行テストを行い、データ収集や分析を重ねていた。
この途中に、チーフデザイナーとして、ミナルディに在籍していたグスタフ・ブルナーが選ばれた。5月の就任から7カ月という非常に短期間で実戦投入用のマシン「TF102」を作り上げた。
エンジン性能とのアンバランスさなどが指摘されていたが、このマシンは2001年12月17日、ドイツ・ケルンのTMG本社に隣接したドイツトヨタで、発表されることとなった。
また、日本の地では同年7月に、松下電器とトヨタがF1でのスポンサー契約調印を行い、「パナソニック・トヨタ・レーシング」という名称で活動を開始することとなる(【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
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