コラム・レポート
「ル・マン」2位を最後にF1参戦に集中するトヨタ(21)
【モータースポーツを拡げろ!】富士スピードウェイから20kmほど離れたところにトヨタの東富士研究所がある。ここで、当時のトヨタ社長、奥田碩(おくだ・ひろし)の一言からF1参戦への挑戦が始まった。
この場に居合わせた、当時トヨタでモータースポーツ担当の専務であった加藤伸一(かとう・しんいち、現豊田中央研究所代表取締役)は、禅の用語である「そっ啄同時(そったくどうじ)」という表現を用いて「(社長と技術陣との)お互いの胸の内がピンポイントでつながった瞬間だった」と振り返る。
この加藤はその昔、トヨタがF1参戦を試行錯誤していた時期にも関わっていた1人だった。1983年にイギリスのロータスに資本参加し、共同で開発チームをつくってエンジンも試作した。しかし、アメリカのGM(ゼネラルモーターズ)によるロータスの買収の動きを契機に、トヨタは資本関係を解消する。
当時、「ついにF1に行けると思った」加藤の願いが立ち消えになり、それから14年を経て、東富士の地であらたなエンジンを得ることとなった。社内での意思統一を踏まえて、加藤は1999年1月「21世紀初頭からの参戦を念頭に」とF1参戦の記者会見を行った。
1998年にホンダはF1活動への復帰に向けて活動を進めていることを発表した。しかも、前回のようなエンジン供給者としてでなく、車体の開発・製造、チーム運営までの「オールホンダ体制」を打ち出す。
日本のF1ファンは多いに喜んだ。結果として、2000年からの復帰には車体は「BAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)」と共同開発という形になったが、日本メーカーの技術力がF1の世界へ注ぎ込まれる流れとなった。
これがトヨタの技術陣を刺激し、トヨタの参戦はホンダの技術陣を多いに鼓舞したであろうことは想像に難くない。スポーツはライバルがいてこそ自己研さんしていくものであり、観る側としても熱が入っていくものなのだから。
一方、トヨタが好調な成績を上げていたのは「ル・マン24時間耐久レース」だ。「TS010」で参戦した1992年はすばらしい追い上げを見せるも、「プジョー」に破れ、総合2位にとどまった。
しかし、ドライバーの1人である関谷正徳(せきや・まさのり)が、日本人で初めてル・マンの表彰台に立った記念のレースともなった。
そして、1994年にも総合2位を獲得する。その後1997年にF1参戦を決めた際に「ル・マンはあと2年」との方針を固め、満を持して開発した「TS020」で1998年に「ル・マン」に参戦した。
レース条件でのタイムは群を抜き、レースでもかなりの時間で首位を走行するも結局はトラブルでリタイアした。1999年には3台を投入し、予選で好タイムをマークする。しかし、レースは一進一退の状況を見せ、夜間に入ると1号車、2号車が相次いでクラッシュによりリタイアしてしまった。
トラブルで出遅れていた3号車がトップを走る「BMW」を猛追するも及ばず、この年も総合2位でレースを終えた。片山右京(かたやま・うきょう)、鈴木利男(すずき・としお)、土屋圭一(つちや・けいいち)の日本人トリオが表彰台2位に並ぶ光景で、トヨタはル・マンを幕引きし、F1へシフトしていくことになる(敬称略、【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
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