コラム・レポート
97年の富士研会議で始まったトヨタF1参戦への道(20)
【モータースポーツを拡げろ!】いよいよ、富士スピードウェイでのF1日本グランプリが9月末に迫ってきた。大会のメインスポンサーであるフジテレビを中心に、報道でも取り上げられる機会が増え、モータースポーツファンの心も高まり始めているのではなかろうか。
日本チームとして参戦している、「トヨタ」、「ホンダ」、そしてホンダエンジンを積む「スーパーアグリ」とも、2007年は当初の意気込みにふさわしい戦績を残しているとは言えない。そこが、F1の世界の難しさでもあり、最高峰にチャレンジするという楽しさでもあるのだろうか。
富士スピードウェイの経営に力を入れるトヨタが、F1に参戦する契機となったのは、今からちょうど10年前であった。時は1997年6月、場所は東富士研究所だ。当時のトヨタ社長、奥田碩(おくだ・ひろし)の提案により、トヨタのモータースポーツ関係者が一同に会した。
ここで奥田はこう切り出す。「君たちはモータースポーツを一生懸命やっているけれども、F1はやりたくないのか」と。
1997年はトヨタとしても輝きを得る中で、苦しみにもがく時期でもあった。1994年には「WRC(市販車をベースとした世界ラリー選手権)」でドライバー、メーカーのダブルチャンピオンを獲得し、1995年にはサファリラリーで藤本吉郎(ふじもと・よしお)が日本人で初の総合優勝を果たす。
しかし、同年10月のレースで車両の技術規定違反が発覚し、FIA(国際自動車連盟)は世界評議会でトヨタの1996年の出場停止という裁定を下す。トヨタは自らの戒めとして、1997年も出場を停止した。
一方、アメリカを舞台とした「CART」に1996年から参戦した。しかし、狙い通りに性能が発揮できず、耐久性でも課題を抱え、完走するのがやっと、また、たびたびエンジンが壊れ、コースにオイルを撒き散らしてしまうといった状態であった。
一方、F1の世界はどうであったか。マクラーレンと組み、1988年に16戦15勝という輝かしい記録を打ち立てたホンダは、1993年のシーズンより撤退していた。1997年の日本人ドライバーは中野信治(なかの・しんじ)、片山右京(かたやま・うきょう)と2人が参戦していたものの、戦闘力の低いマシンにてこずり、低調な結果となっている。
そのタイミングでの奥田の一言だった。やりたいと思っても、現状さえうまく打開できていない状況だ。参加者は一様に黙り込んでしまった。
しかし、この緊張感をメンバーの1人が打ち破る。「ぜひ、やりたいと思います」。ここが、F1参戦のスタートとなった。折りしも1997年は量産型ハイブリッドエンジン搭載の「プリウス」が発売された年でもある。
トヨタが、環境とモータースポーツの頂上を、確実に見据えた転換点であったともいえよう(敬称略、【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
注:「CARI(Championship Auto Racing Teams)」は1979年より「インディカー」(ホイールをオープンにし、フォーミュラカーに近い車だが、フォーミュラーカーよりは小さい)によるチャンピオンシップシリーズとして運営され、国際化が進められ、1990年代前半には一時期F1と肩を並べる勢いをもったが、2003年に経営破たんし、現在はブリヂストンがスポンサーとなり「チャンプカー(Champ Car)」となっている。
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