コラム・レポート

第2回F1の惨劇で優勝者は表彰台に上がらず帰路に(19)

第2回F1の惨劇で優勝者は表彰台に上がらず帰路に(19)「ティレル007」に乗る高橋国光が日本人最高位の9位だった。

【モータースポーツを拡げろ!】1977年は富士スピードウェイで「1977日本グランプリ・F1レース」が開催された。その国で行われる最高クラスの内容のレースに「グランプリ」という名称を与えるという規定にのっとり、1977年のレースでようやく「日本グランプリ」と呼ばれることになった。

JAF(日本自動車連盟)、TBS(東京放送)、富士スピードウェイで組織した日本モータースポーツ協会の主催で、10月21日から10月23日に行われた。


1976年のF1で3位のハントは1977年に「マクラーレンM26」を操って優勝したが、最悪の事故を目にして、表彰台に上がらなかった。

1977年はすでに「フェラーリ」のニキ・ラウダがチャンピオンを決めており、日本にはこなかった。1976年の時に予選1位を獲得したマリオ・アンドレッティが1977年の予選初日もコース新記録でトップを占め、予選2日目には記録を自分で更新する走りで、ポールポジションを獲得した。

1976年とはうってかわっての秋晴れとなったレースで、またも快調に飛ばすアンドレッティだったが、100Rの立ち上がりでクラッシュしてしまう。

一方、終始安定したレース運びをしたジェームス・ハントがしっかりと78周を走りきって優勝した。2位には「フェラーリ312T2」のカルロス・ロイテマン、3位には「ティレルP34」のパトリック・デパイエが入った。

1977年のF1で健闘した星野一義は同年GCシリーズで活躍するも、わずか1点差でチャンピオンの座に就いたのは生沢徹(写真)だった。

日本勢では、「ティレル007」に乗る高橋国光(たかはし・くにみつ)が9位に食い込み、星野一義(ほしの・かずよし)は「コジマ」に乗って11位という結果であった。

この日本での第2回目のF1は、その後の日本のモータースポーツに暗雲を投げかけるレースとなってしまったことも取り上げるべきであろう。

第1コーナーで、ロニー・ピーターソンの「ティレル」とジル・ビルヌーブの乗る「フェラーリ」のタイヤが接触し、「フェラーリ」は空中を大きく跳んでコースアウトしてしまう。その時、金網柵の中に入り込んでいた観客と、観客を整理していたガードマンが巻き込まれ、死亡者2人を出す最悪の事故となってしまった。

レースはそのまま続行され、ハントの優勝で終えたが、ハントは表彰台にも上がらずに帰途についてしまった。

観客のマナーやレースの運営に対する批判の声が高まり、1978年以降のF1開催は見合わせられることとなった。次にF1が開かれるのは、10年の歳月を経た、三重は鈴鹿の地であり、富士スピードウェイに戻ってくるまでに30年もの時間が必要だった(敬称略、【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
富士スピードウェイ

この記事を友だちに送る >>