コラム・レポート
富士SWの開幕戦は滝、砂子、生沢の白熱戦だった(16)
【モータースポーツを拡げろ!】無事完成した富士スピードウェイ、この記念すべきオープニングレースは1966年3月、第7回の「全日本モーターサイクル・クラブマン・レース」だった。
主催した、オートバイ・スポーツのクラブを組織した団体「日本モーターサイクル・クラブ連盟(MCFAJ)」は、1958年に浅間山ろくでの「浅間火山レース」などを開いた、戦後モータースポーツの草分けとも言える。
同じ3月には4輪のレース「クラブマンレース富士大会」の第4回目が開かれた。このときには、「フライング・スコット」(空飛ぶスコットランド人)と異名をとる、F1チャンピオンのジム・クラークが招かれた。
ジム・クラークは、ロータスに乗って疾走し、前年にはF1シリーズで圧倒的な成績でチャンピオンとなっていた。彼を呼んで走ってもらうことで、国内だけでなく、海外へも富士スピードウェイの存在を知ってもらうチャンスと考えたわけだ。
来日したジム・クラークは、ロータスのF3マシンで、1万人の観衆の前でコースを試走した。「このコースはバラエティに富んでいて面白い。それに路面がいい」とのコメントを残している。
このクラブマンレースは、同年5月に行われる第3回「日本グランプリ」の前哨戦とも喧伝され、トヨタは「RTX」(1600GTの前身)、日産は「フェアレディS」を投入するなど、メーカー側でも力の入ったレースとなった。
その5月、「日本自動車連盟(JAF)」主催による第3回「日本グランプリ」が、富士スピードウェイで開かれた。大会の名誉総裁、高松宮宣仁親王(たかまつのみや・のぶひと・しんのう、1905-1987)による挨拶を皮切りに、熱戦の火ぶたが切られた。
トヨタは前年のモーターショーで話題をさらった「2000GT」を投入する。この年に日産と合併するプリンス自動車は、「R380」を出場させた。
後にタキレーシングを率いる滝進太郎(たき・しんたろう、1937-1998)は、「ポルシェ・カレラ6」を輸入してエントリー、日産は「フェアレディS」で参戦する。また、ダイハツはプロトタイプの「P3」で参加、プライベートレベルでエントリーしたのは、アバルト(イタリア、後にフィアットと合併)「シムカ」、ロータス「エリート」、ジャガー「XKE」、デイトナ「コブラ」などであった。
レースは、プリンスの「R380」と滝進太郎の「ポルシェ」とのデッドヒートとなり、トップを走る砂子義一(すなこ・よしかず)の「R380」を、同じ「R380」を操る生沢徹(いくざわ・てつ)がサポートした。それを、「ポルシェ・カレラ6」で滝進太郎が追う形となる。7週目に滝は生沢を追い越し、25週目にはトップに立つ。しかし次の周回では砂子が抜き返すという、白熱したレースとなった(敬称略、【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
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