コラム・レポート

河野洋平がレーサーのモスに富士SW基本設計を委ねる(15)

河野洋平がレーサーのモスに富士SW基本設計を委ねる(15)スターリング・モスのアイデアから大成建設の内藤正昭が設計したコースが富士のふもとに広がる。

【モータースポーツを拡げろ!】ここまで、富士スピードウェイの歴史からはじまり、日本の自動車業界のモータースポーツの隆盛から転換期までを振り返ってきた。

ここで、2007年9月末に30年ぶりにF1が開催される、富士スピードウェイについて、もう一度、足跡をみてみよう。

富士スピードウェイの歴史、もともとは、「NASCAR(ナスカー)」と呼ばれる、市販車をベースに改造した車両で行われるアメリカのレースを日本でも行おうという思いが、計画の発端であった。

1963年に鈴鹿サーキットで行われた「第1回日本グランプリ」でいすゞ「ベレル」を駆ったドン・ニコルスは、日本に「へナスカー」方式のレースの導入を考えていた。


スターリング・モスが加わり、コース設計の見直しが始まった。写真はコース設計を打ち合わせるモス(左)とペニー。

このアイデアに乗った当時の丸紅飯田(現丸紅)の会長、森長英が富士スピードウェイ株式会社の前進となる「日本ナスカー」を1963年12月に設立した。

年が明け、富士急行より静岡県小山町に、自動車レース場をつくるための要請があり、検討の末に地元町長はこれを受け入れる。

富士のふもとの土地が選定され、地権者450人との交渉、調整の末、正式に契約がかわされ、1964年12月に起工式が行われた。

しかし、この動きを主導してきた「日本ナスカー」は多額の建設資金に苦しむことになり、資金が続かなくなったため、経営権が河野一郎(1898-1965)の率いる河野グループに託された。

1965年12月に完成したコースは富士山を模したような当時のロゴマークが印象的だ。

この実務を取り仕切り、副社長に就任したのが現衆議院議長の河野洋平だ。河野の判断で、「ナスカー」の誘致を破棄するとともに、「レースの神様」ともうたわれたイギリス人のF1レーサー、スターリング・モスを招聘する。

スターリング・モス(1929-)-F1が好きな人なら、1度は耳にしたことがある名前だろう。1950年代に活躍したイギリスのレーシングドライバーだ。

類まれなるテクニックを発揮しながらもチャンピオンの座には就けず、「無冠の帝王」とも評される。1962年に瀕死の重症を負ってしまい、引退を余儀なくされてしまう。このモスが来日してコース用地を視察し、全長8km、12のカーブを組み合わせたレイアウトを描きあげる。

モスのイメージを参考とし、「ナスカー」を想定していたときに、設計を担当したマニー・ベニーが考えた30度バンクも残しながら、大成建設の内藤正昭が最終形を設計する。

1965年に完成した、国内最大規模のレーシングコースは1966年から営業をはじめた。この時期には、1965年に東京湾の埋立地にオープンした船橋サーキット、そして1970年には茨城県に筑波サーキットができるなど、モータースポーツが盛り上がりを見せた時期でもあった(敬称略、【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
富士スピードウェイ

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