コラム・レポート

レースカーを断念しても、市販車で参戦進める(14)

レースカーを断念しても、市販車で参戦進める(14)ラリーの主力車種として開発された「セリカ」。

【モータースポーツを拡げろ!】1970年に日産自動車は日本グランプリへの参加を見合わせる声明を発表した。これを踏まえて、トヨタ自動車も不参加を決定する。

1971年には公害対策を最重要課題と掲げた佐藤栄作(1901-1975)内閣により、環境庁が設立された。レースを舞台とした大排気量化競争の終息でもあり、各自動車メーカーの、モータースポーツ自粛への転換期でもあった。

しかし、これと並行するように、市販車をベースにしたレース活動を、トヨタは継続していく。ここまで検討してきた国際ラリーのレースに、1968年に参戦し、結果はリタイアであったが、ヨーロッパのモータースポーツへの足跡が刻まれた。


1971年に開催された「日本オールスターレース」の光景。

この時に参戦したレースは1911年から続く由緒ある、モンテカルロラリーだ。しばらくリタイアなどが続き、悲願の名門レース初優勝は、最初のチャレンジからなんと23年後の1991年、TTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)で、「セリカGT-FOUR」で参戦した、ラリーの英雄、カルロス・サインツまで待たなければならなかった。

一方、ツーリングカー部門へとシフトした国内の動きをみてみよう。トヨタは、ターボエンジンを搭載した「マーク?」を開発し、3つのレースに投入していた。

1971年の「モンテカルロラリー」をこの車で参戦、ともくろんでいたものの、3つのレースでリタイアが続出してしまい、ラリー参戦も断念し、開発も中止した。

レース縮小の中、ターボ技術を進めていった努力が結実して、「セリカ」が1973年の富士1000kmで総合優勝を果たした。

しかし、ここで得られたターボ技術が、次の段階で花開く。ラリーの主力車種として、1971年から「セリカ」をベースに開発が進む。そして、1971年秋に行われた「日本オールスターレース」では、デビュー戦で優勝を果たし、1973年には富士1000kmの総合優勝へと結実した。

ちなみに、この「日本オールスターレース」で「セリカ」優勝の前年1970年に総合優勝を果たしたのは、いすゞ自動車の「ベレッタR6」だった。

独自に高性能化した「DOHCエンジン」と、「全輪独立懸架」という各タイヤをそれぞれ独立させたサスペンションで操る技術の蓄積で実現した、コーナーリングのよさの結果だ。

公害などの大きな壁がはだかり、モータースポーツ全体の熱は下がってしまったが、その裏で「この熱を絶やすものか」と意気込むエンジニアたちが、自動車の技術向上をあきらめなかった、大いなる証拠であろう(【モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
富士スピードウェイ

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