コラム・レポート
ヤマハとの提携で実現したトヨタ「2000GT」(12)
【連載:モータースポーツを拡げろ!】誕生して40年以上経つ今も、伝説的に語られ、またレーシングカーのファンの憧れを集める名車トヨタ「2000GT」。このクルマは、第2回日本グランプリが行われた1964年の夏頃から開発計画が進められた。
この当初計画の柱は5つ。1.高性能で本格的なスポーツカー、2.レース専用のレーシングマシンではなく日常の使用を満足させる高級車、3.輸出を考慮する、4.大量生産を主眼とせず仕上げのよさを旨とする、5.レースに出場し好成績を得られる素地を持つ。
この時代、自動車が普及をし始め、トヨタではさまざまな新車開発計画を持ち、スタッフや生産能力に余裕がなかった。そのため、2輪車のレース界で活躍をしていたヤマハ発動機と提携を決断する。
この背景には、本格的なスポーツカーを開発したいトヨタが、ヤマハの持っていたDOHCエンジンの技術に着目したことに加え、4輪の部門へ進出を企図していたヤマハが、日産と進めていた高性能スポーツカーの開発が計画中に頓挫してしまったという事情もあったという。
1965年10月には試作の第2号車が「東京モーターショー」で発表され、大きな話題を呼んだ。特に、風を感じさせる流れるようなデザインは、当時の「自動車」という存在に対するビジュアル面での認識に、大きな衝撃を与えたに違いない。
1966年5月には、完成したばかりの富士スピードウェイで開催された日本グランプリで、「2000GT」はプロトタイプクラスで出場する。レース専用の車両開発を行うプロトタイプの中では、市販車をベースにしたGTクラスである「2000GT」は当然ハンディを負っての出場であったが、3位に入賞を果たす。
6月の鈴鹿で行われた1000kmレースでは1位、2位を占め、高速性だけでなく耐久性も実証することなった。
この年の10月、技術的な挑戦と販売促進向けのPR効果を狙い、「2000GT」は長距離スピードトライアルに取り組む。場所は茨城・谷田部の高速自動車試験場で、4日間で1万ml(1万6000km)を走り、平均時速は206.18kmだった。この2カ月後、FIA(国際自動車連盟)公認の日本発のスピードの記録となった。
1967年4月には、日本で初めての24時間レース「富士24時間耐久自動車レース大会」が、富士スピードウェイで行われた。ル・マン24時間レースの日本版だ。
ここで「2000GT」を擁するトヨタチームが圧勝する。これらの蓄積を背景に、同年5月、国内で発売され、かなりの高価(当時のクラウンの約2台分)であったにもかかわらず自動車ファンの注目を集めることとなった。
今、「スポーツ800」、「2000GT」とも愛知県長久手にあるトヨタ博物館でその姿に触れられる。日本のモータースポーツの隆盛の風を感じられるかもしれない(【連載:モータースポーツを拡げろ!】はモータースポーツについて毎週末に掲載します。若手ライターの平本真樹さんが書いています)。
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