コラム・レポート

8・15に国旗が翻るインドで、根強いボース生存説(94)

8・15に国旗が翻るインドで、根強いボース生存説(94)インド国旗は独立運動の象徴。中央のチャクラは、ガンジーが独立運動時提唱した糸車(インド古来の製糸)運動のシンボル。

(今週のOL銀座食楽部は休載します)
【印度の玉手箱】8月15日はインドの独立記念日だったが、恒例のようにインド国民は祝賀ムード一色で、各地で式典が盛大に執り行われた。家々の軒にはサフラン・白・緑の横3色の中央に法輪(チャクラ)を配した国旗が誇らしげに翻った。

サフランはヒンドゥ教、緑はイスラム教、白は2宗教の和解とその他の宗教を表わすのだ。

インド人は愛国心の強い国民なので、ショップも国旗をかたどったグッズがいろいろ売り出された。バッジやステッカー、ペンなどは子どもたちに人気で、競って買われた。オートリキシャ(三輪車)のお兄ちゃんも、ビニールの小旗を買って、車の屋根の上に取り付けたりした。


今も生存説が根強く残る、独立運動の国民的英雄、スバス・チャンドラ・ボース。

日本にとっては終戦記念日でもあるが、敗戦後のアメリカの占領政策で愛国心を歪められた日本人からすると、子どもたちが日の丸グッズを競い合って買うなど考えられないことだ。

建国記念日(2月11日)に日の丸旗を掲げる家が今の日本で、何軒あるだろうか。それに比べると、インドでは、自由独立運動の闘士たちが血を流して闘った独立をいつくしみ、誇らしげに思っているのだ。

いまだに国民に人気なのは、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、1897-1945)だ。当オリッサ旧州都カタック生まれで、生家は博物館になっているだけに、ベンガル地方ではことのほか尊敬されている。

日本軍に参戦し、イギリスから独立を勝ち取っただけに、日本人にもわりと名の知れている自由独立運動のヒーローで、インドでは伝説的存在だ。写真で見ると、丸めがねのボースはちょっと見た目は日本人と変わらない顔つきで、親近感をそそる。

インド独立の父、マハトマ・ガンジー。マハトマとはノーベル賞詩聖タゴールから贈られた「偉大なる魂」の意の尊称。

日本軍が丁重にもてなしたのも納得できるような気がする。当時の首相東条英機(とうじょう・ひでき、1884-1948)も高く評価し、何度か会談したとされる。

世界的に有名な聖者、かのマハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi、1869-1948)も国父として崇敬されるが、インド・パキスタン分離独立を避けえなかったため、チャンドラ・ボースのシンパのなかには反マハトマを唱える者も多いのだ。

ボースは与党インド国民会議派の急進派で、穏健派のマハトマとは対立、除名された経緯があったのである。

チャンドラ・ボースは1945年8月18日に台北で飛行機墜落死、東京都杉並区の蓮光寺に遺骨が納められているが、インド人のなかにはいまだに英雄の死を信じていない者もおり、ヒマラヤの山奥で聖者として生存しているとのまことしやかな伝説も伝わっている。

政府諮問の調査委員会が過去3度(1956年、1970年、2006年に報告書)にわたって綿密な調査を繰り広げたが、「飛行機事故は連合軍による追跡をかわすため日本軍がでっちあげたもので、蓮光寺の遺骨はボースのものでなく、死亡は確実ながら、死因は不明」との結論が出された。

ボースの話が長くなってしまったが、最後に日本の君が代問題ではないが、昨今インドの国歌斉唱に関してヒンドゥ・ムスリム間で争いの種となっているので、簡略に付け足しておこう。

「バンデー・マータラム」、母なるインドというフレーズにイスラム教徒は引っかかるわけで、元々サンスクリット語だけに、この母を意味する「マー」がヒンドゥ女神を崇拝すると懸念され、斉唱を拒否する事態が発生しているのだ。

「マー」が文字通り母国の意味であれば、問題ないのだが、結局は解釈の相違ということだろう。急進的なイスラム団体は、研究調査を要請している(【印度の玉手箱】はインドで暮らすモハンティ三智江さんがエッセイやショートストーリーを不定期に書きます)。

注:スバス・チャンドラ・ボースは1897年イギリス領インド帝国のベンガル州カタック(現在のオリッサ)に生まれ、カルカッタの大学を卒業、イギリスのケンブリッジに留学した。

1921年にマハトマ・ガンジー指導の反イギリス非協力運動に身を投じ、1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕、投獄され、ビルマ(現ミャンマー)のマンダレーに流される。

釈放後の1930年にカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府により免職された。その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、1937年と1939年に議長を務めた。

この間、国民会議派内に前進同盟を結成した後、ガンジーら穏健派と対立し、国民会議派を除名された。第2次大戦勃発後の1941年にはソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り、インド旅団(約2000人)を結成、イギリスと戦火を交えるドイツに協力していた。

日本の対イギリス開戦の知らせを聞いたボースは、日本に協力を願い出ることを望み、日本からドイツへの要請により、ドイツ海軍の潜水艦で密かに出航、インド洋でUボートから日本海軍の潜水艦に乗り換えて東京に到着した。

終戦後ソ連に向かう途上、台湾松山飛行場で離陸に失敗、死去、ボースの臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」だった。
ホテル・ラブ&ライフ

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