コラム・レポート
経営者の道を捨て画家に、作品を公開したくて70歳で開廊
【ギャラリーニュース】銀座6丁目の松坂屋の目の前に、新しい画廊「銀座ヒサギャラリー」が1月はじめに誕生した。自ら絵を描く経営者の田中ひさ恵(たなか・ひさえ)さんがほかの画廊での個展開催に満足できず、自らの絵を飾って、多くの人に見てほしいという気持ちで、70歳近くになって銀座に画廊を開くことを決意したのだ。
もともと東京で生まれた田中ひさ恵(たなか・ひさえ)さんは武蔵野美術短期大学を卒業後、設計事務所などで空間のデザインなどを手がけていたが、亡くなった夫の田中定男(たなか・さだお)と結婚した後、1964年に夫婦で機械商社の「田賀産業」を設立した。
事業が順風満帆な1973年に社長の田中定男ががんにかかり、余命6カ月といわれた中で、田中ひさ恵さんは黄だんに苦しむ夫を転院させるなど、夫婦で協力して戦い、9年も延命し、これで完治したと思った瞬間、医者から転移を告げられ、苦闘の末、がんとは知らずに1981年に夫が亡くなった。
この間、会社の役員を務めながら絵画の制作を続けたものの、夫が亡くなった後は田中ひさ恵さんが社長に就任して、経営者として会社を切り盛りした。「セイコーグループがもっとも大きなお得意さんだったんです。お客さまのところに行くときは、社員が運転する車でうかがって、必ず私が先に歩いて、応接室にも私が先に入り、座るのは先方から促されてからですが、それも私だけで、社員は座らせません。何かを説明する場合に、すぐに必要な資料が出せるように準備させるためです」と語る。厳しい情経営者だったようだ。
また、1台の機械が売れれば、すぐに粗利を出して計算できるようにして、毎月の決算も月があければすぐに算定できるようにした。
しかし、経営者と絵描きの道の二者択一に次第に迫られるようになると、田中ひさ恵さんは絵をとり、会社を閉鎖することにした。在庫の機械をすべて処分し、会社休眠後も6カ月間はサービスを続け、顧客の信頼を落とさずに「会社経営から足を洗うことができた」という。
それからは田中ひさ恵さんは1日中、絵の制作に取り組んだ。絵が何点か生まれると個展を開くが、「私は絵を売らない主義なんです」と苦笑する田中ひさ恵さんには絵の「完成」というもの存在しない。わざわざ描き上げた作品なのに、手元に置いて見ていると、つい手を加えたくなる。完成した作品はいつの間にか、変わってしまう。
田中ひさ恵さんは過去の作品をまとめた小さな作品集を制作しているのだが、画廊に掲げてある絵と、作品集の絵は一致しない。「ほら、ここの青が違うでしょ。この絵は最初は真ん中に道がなかったのに今は道があるんですよ」と自らその違いに大笑いする。
しかし、1994年に描きあげた100号の作品は愛媛県吉海町の町長が偶然、銀座に来て、田中ひさ恵さんが開いていた個展に顔を出した。百貨店を回ってもいい作品がなく、偶然入ってみた画廊に田中ひさ恵さんの大作が飾られていた。5年もかけて完成させた作品で、買取額は町長が予想した金額よりも高かったが、「最初はもう少しまけてほしいといってきたんですが、5年もかかったんですよ、と言ったら、こちらの言い値で買ってくれ、足りない分は自分で払うといっていました」と笑う。
そのため、吉海町の町民会館ロビーに田中ひさ恵さんの作品2点が飾られている。一度だけ田中ひさ恵さんは観に行ったことがあり、「自分が作者と知らせずに宿の人に絵の感想を聞いたら、評判がいいですといわれてうれしかった」そうだ。
長女の田中佐知子(たなか・さちこ)さんも母親を手伝って画廊に日々通っているのだが、「画廊に絵筆を持ってくるのは禁止したんです。ここは飾るだけにしないと」と母親を説得して、絵に手を加えることを禁止した。都内にある自宅でも「2階にあるアトリエで制作した絵は完成したら3階にもっていくんです」という。2階に置いておくといつまでも手を加えて作品を変えてしまうからだ。
田中ひさ恵さんにとって建築設計やデザインは趣味以上のものだ。今の自宅やかつて購入した土地に建てた共同賃貸住宅もすべて自ら設計を行った。短大卒業後、設計事務所で線を引いてきた経験から、今でも建物を見るのが好きで、設計する機会があれば線を引きたいという思いがある。
田中ひさ恵さんは絵の題材はイメージの中から描くが「風景画はあんまり好きでなく、どうしても人物を入れたいんですよね。でも、人物画は難しくて」と語る。作品の中には、絵や動物など必ず生物が入る。もっとも、ほかの人からポートレートを頼まれても応じることはない。「なんか制約されて絵を描くのが好きではないんです」と語る。
愛媛県吉海町の町長が購入した100号の作品。「自分の作品を売りたくない」という信念をもつ田中ひさ恵さんの数少ない売れた作品だ。
中は広いスペースで、もうひとつ部屋があり、2つに仕切ってあるが、仕切りをはずすとひとつの大部屋として使うこともできる。2006年には田中ひさ恵さんは大量の血をはき、「死ぬ寸前までいきました」。原因は不明で、隣の田中佐知子さんを見ながら「この娘がいてくれなかったら、もう死んでました」というほどの苦しみを乗り越えて、1日10時間もキャンバスに向かう日々で、だからこそ、自分の作品をひとりでも多くの人にみてほしいと願っている。
今の悩みは「画廊の予約が1年後ばかりとは思ってもみなかったこと」という。開廊したばかりなので、問い合わせはすべて1年後の話ばかりで、今は自らの作品と長女の田中佐知子さんの写真を展示している。
「画廊経営が成り立つのに2年も3年もかかるとは知りませんでした」と語る田中ひさ恵さんは今、予約を入れるのに必死になっており、絵を描く時間がないのも悩みになっている。
注:「銀座ヒサギャラリー」と「田中ひさ恵」の「ひさ」は正しくは「永」に「日」がついた漢字です。
「銀座ヒサギャラリー」(中央区銀座6-9-8、銀座UKビル4階、03-6228-5707)
営業時間は11時から18時。毎週水曜日が休み。
展示会の相談は直接画廊に。
銀座ヒサギャラリー




