コラム・レポート
「日本は自分」といえる1年でありたい(54)
2009年12月にはせがわ銀座本店で開催したグループ「九つの音色」展の代表で、東京芸術大学学長の宮田亮平さん(右)の前であいさつする長谷川裕一さん。福岡と東京のはせがわ本店で開催した「九つの音色」による展示会は従来、日本橋三越で開いていたが、最後の展示会だけ両本店でそれぞれ1週間ずつ開催と短期間にかかわらず、三越の売上額を上回ったという。
(「今年をどう生きるか」をテーマにした3部作はこれが最終回です)
【暮らしの中の仏教・言の葉集】先日、とても素敵な女性に出会った。出雲大社(島根県)に行く途上でのことだ。出雲大社の手前の玉造(たまつくり)温泉への車中で、向かい側に美しく清々(すがすが)しいお嬢さんが座った。話しかけると短大生だと言う。
「日本はどこにあると思いますか?」と聞いてみた。皆さんはどう答えるだろうか。彼女は「日本は私です」と答えた。「なぜ?」と問うと、「私は松江(島根県)が大好きですから」と。
私はその一言に、いうにいわれぬ深いものを感じた。理屈や知識などで日本の場所を地理的に説明する人はいる。だが、彼女の答えは論理や知識ではない。「私は私が住んでいる松江が好き」という感性なのだ。どんな理屈を並べるより深い悟りの世界、悟りの言葉だと思う。
何より、「私の問題」として話しているところに感心した。このことを、今、日本人は取り戻さなくてはいけないと思う。今の日本人はすべてが「他人事(ひとごと)」になってはいないだろうか。理屈ばかりで、自分の問題として考えたり、語ったりする人は少ない。
自分の問題とするのは、損か得か、面子(めんつ)がどうか、恥か恥じゃないか、自慢できるかできないか、というような煩悩(ぼんのう)、欲望を軸にして考えているときだ。
「他人事」か「自分の欲望に基づく」かのどちらかしかない。これが、今日、いちばん大きな問題である。自分の生命を生きていながら、すべてが他人事、欲望に縛られて不自由とはなんとも空(むな)しいではないか。
仕合わせは目に見えるものではない。表面で見えるものだけを見ていても、仕合わせにはなれないのだ。現実の中に飛び込んで、一生懸命に生きている中に仕合わせがある。だから、他人事と思っていると不幸なままだし、自分がその当事者になれば仕合わせになれる。
大切なのは、濁りのない澄んだ心、他人事ではなく、自分のこととして受け止めていく姿勢である。知識がたくさんあって、逆に知識が邪魔をするのではなく、大地にしっかり足をつけて、欲望を超越した尊い本質的な人間性で物事をとらえていくことが重要だ。
新しい年を迎え、もう一度素直に自分の生命の原点、自分の存在を見つめることからスタートしてみてはどうだろうか。さらに、父や母、ご先祖様、神様、仏様のお恵みに素直に感謝するところからスタートしてはどうだろうか。
他人事ではなく自分自身の問題として、素直な心でこの世のすべてに接する。今年はそんな年にしていただきたいと心から願う(【暮らしの中の仏教・言の葉集】はお仏壇のはせがわの会長、長谷川裕一さんが日常生活の中に根づいている仏教について話したことをまとめています)。
お仏壇のはせがわ銀座本店


