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田辺一邑と歩く田端文士村、子規寺も

田辺一邑と歩く田端文士村、子規寺も

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【銀座新聞ニュース=2010年9月1日】永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)で9月7日に田辺一邑さんによる「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開催する。

永谷商事が定期的に開催している講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は真打の講談師、田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんが「田端文士芸術家村を行く」と題して、「田端文士村記念館」(都北区田端6-1-2、03-5685-5171)から「大龍寺(だいりゅうじ)」(北区田端4-18-4、03-3821-0014)を回り、「菊池寛旧居跡」と「芥川龍之介旧居跡」を経て「与楽寺坂(よらくじざか)」から「高村光太郎旧居跡」(文京区千駄木5-22-8)を歩いて、お江戸日本橋亭で「お江戸日本橋寄席」で講談を披露する。
「田端文士村記念館」は田端に住んだ文人や芸術家の功績を紹介するため設立された。記念館によると、田端は明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だったが、1889年に上野に東京美術学校(現東京芸術大学)が開校されると、若い芸術家が集まるようになった。

1900年に洋画家の小杉放庵(こすぎ・ほうあん、1881-1964)が田端に下宿し、1903年に陶芸家の板谷波山(いたや・はざん、1872-1963)が田端に窯を築き、彫刻家の吉田三郎(よしだ・さぶろう、1889-1962)らが次々と田端に移ってきて、画家を中心に「ポプラ倶楽部」という社交の場が作られた。

1914年に芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892-1927)が、1916年に室生犀星(むろお・さいせい、1889-1962)が転居してきて、その後、萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう、1886-1942)、菊池寛(きくち・かん、1888-1948)、堀辰雄(ほり・たつお、1904-1953)、佐多稲子(さた・いねこ、1904-1998)ら作家が田端に集まった。こうして大正末から昭和にかけて田端は「文士村」と呼ばれた。入館料は無料。開館時間は10時から17時。

「大龍寺」は真言宗霊雲寺派の寺で、古くは「不動院浄仙寺」と号し。1596年から1615年の慶長年間に創建され、1781年から1789年の天明年間に観鏡光顕(かんきょうこうげん)が中興して大龍寺と改称したと伝えられている。

別名「子規寺」と呼ばれ、俳人の正岡子規(まさおか・しき、1867-1902)や、講道館4天王のひとりとされた柔道家、横山作次郎(よこやま・さくじろう、1864-1912)、陶芸家の板谷波山(いたや・はざん、1872-1963)らの墓がある。

「菊池寛旧居跡」は作家の菊池寛が室生犀星が住んでいた田端523番地(当時)に室生犀星転出後の1923年に借りて暮らした家だ。

「芥川龍之介旧居跡」は作家の芥川龍之介が1914年から1927年に自殺するまで過ごした家だ。家族はその後も田畑の家に住んだ。

「与楽寺坂」は田端駅南口から急な階段の坂道(不動坂)を上がると出てくる坂だ。このすぐそばに芥川龍之介旧居跡がある。

「高村光太郎旧居跡」は詩人で彫刻家の高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883-1956)が1912年から1945年まで住んだ家で、1914年に長沼智恵子(ながぬま・ちえこ、1886-1938)と結婚、ここで新婚生活をはじめている。

田辺一邑さんは1961年静岡県浜松市生まれ、横浜市立大学文理学部文科独語独文学専攻を卒業、「日航情報開発」などで10年以上システムエンジニアとして勤め. 1997年に田辺一鶴(たなべ・いっかく)さんに入門、前座名が「一邑」、2000年に「二ツ目」、2009年に「真打」に昇進している。

時間は10時から16時で、昼までにお江戸日本橋亭に移り、12時から「お江戸日本橋寄席」を楽しむ。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。
(2010-09-01)

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