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丸善丸の内でアルメニア人のジャン・ジャンセン展

丸善丸の内でアルメニア人のジャン・ジャンセン展

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【銀座新聞ニュース=2010年2月2日】丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)は2月2日から2月11日まで4階ギャラリーで「魂の画家ジャン・ジャンセン展」を開催している。

19世紀末から20世紀初頭にかけてオスマン帝国(現トルコ)において、少数派住民のアルメニア人に対して行われた「アルメニア人大虐殺」シリーズを描いたことで知られ、現在、フランスで制作しているアルメニア人画家、ジャン・ジャンセン(Jean Jansem)さんの油彩画や水彩画、リトグラフなど約30点を展示販売している。

ウイキペディアによると、「アルメニア人大虐殺」は1894年にオスマン帝国アナトリア東部のビトリス州で、イスラム教徒のトルコ人とキリスト教徒のアルメニア人が衝突し、オスマン政府が軍隊を動員して鎮圧し、2万人とも言われる犠牲者を出したのが第1回目とされている。

アルメニア人政党は国際世論に訴え、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の対応を批判し、1895年にイギリス、フランス、ロシアが共同でアナトリア東部の行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国に迫った。

しかし、オスマン政府が履行を受諾しながら改革を実施しないため、抗議するアルメニア人の大規模なデモがイスタンブールで起こり、これに怒ったイスラム教徒の民衆が首都でアルメニア人を襲撃、1896年にはアルメニア人の革命組織がイスタンブールのオスマン銀行を襲撃し、占拠するという事件が起こった。

事態は沈静化されたものの、こうした不安定な状況のまま、1914年に東部アナトリアの諸州にアルメニア人問題に関する国際監視団が派遣されることが決まったものの第1次世界大戦(1914年から1918年)が起こると凍結された。

しかし、大戦でオスマン帝国がドイツなどの同盟国側についたため、連合国側のロシア軍が東部国境を越え、西部戦線でもイギリスの激しい攻勢にさらされる中で、オスマン帝国は1915年4月8日にアルメニア人虐殺を指令し、4月24日にイスタンブールでアルメニア人の活動家たちが集団で殺害されたという。これが最初の虐殺とされる事件であり、この日が虐殺の記念日とされている。

一方、虐殺を否定するトルコ側の主張は、アルメニア人が多く犠牲になったのはあくまで戦時下の最前線の混乱における不幸な結果としている。この一連の迫害において死亡したアルメニア人の人数は、もっとも少なく見積もるトルコ人の推計で20万人から、もっとも多く見積もるアルメニア人の算出で200万人とされる。ヨーロッパやアメリカ、日本の研究者の間では60万人から80万人と推定されている。

この問題は1991年に旧ソ連から独立してアルメニア共和国が誕生して以降も尾を引いており、2006年にはフランスの国民議会が「アルメニア人虐殺否定禁止法」を可決し、「第1次世界大戦中の1915年から1917年にかけ150万人のアルメニア人がオスマン帝国に虐殺された事実を否定する行為には最高5年の懲役刑ないし罰金刑を科す」という内容だ。2007年にはアメリカ下院外交委員会が20世紀の初頭におきたこの問題に関して、非難決議案を採択している。

ジャン・ジャンセンさんは1920年アルメニア人の父とトルコ人の母(アレック)の間に生まれ、ギリシャのサロニカで少年時代を過ごし、1931年に一家でフランスに移住し、1938年にパリ装飾美術学校を卒業、1939年から1946年にかけてサロン・ドートンヌ展、アンデパンダン展、サロン・デ・チュイルリー展、エコール・ド・パリ展などに出品した。

1951年に民主主義者賞、1954年にフランス国家給費を受け、1958年にサロン・デ・ジューヌ・バンチュールの会長に就き、メキシコのコンパレゾン賞を受賞した。1969年に長野県に「安曇野ジャンセン美術館」を開設、その後、多くの個展を開催し、2000年に東京都に「ジャンセン美術館」を開設、2002年にアルメニア国立館で「虐殺展」を開催し、アルメニア国家勲章を受章した。2003年にフランス国家勲章(レジオン・ド・ヌール勲章)を受章している。

開場時間は9時から21時(最終日は17時)で、入場は無料。(2010-02-02)

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